ロックンロールは鳴り止まない
ふと、この記事を書く前に志村正彦のことを考えていた。
今日がクリスマスイブだったらわかる。それが命日だったから。
私が山梨出身だったら広報とかで見てふと考えたのかもしれない。
ただ、
全然なんともなく、
「あれ、志村いつ亡くなったんだっけ?」
って丁度見るつもりでいたCDJ0910に出る前のことだった。
あれから今年が10年らしい。(Wikipediaより)
そして、
私も志村の年を追い越してしまったらしい。
あ、
多分、内田裕也さんがお亡くなりになられたからなのかもしれない。
「ロッケンロール!」
今日どれだけ沢山聞いたか。
私の中のロッケンロールは志村正彦さんであったのかもしれない。
アジカンや、ストレイテナー、エルレガーデンやらアシッドマンやらやら…
10年以上メジャーで活躍しているバンドさん達を私は地元に来る度学生の頃だったのでライブに足しげく通い、毎回毎回はしゃいでいる(前線で見る)ようなものだった。
今、バンドライブ行っても本当によっっっっっっぽど
『明日、明後日休み!そんで色々何にも気にしなくて良い!元気もある!』
ってぐらいじゃないとライブで体力全部持っていかれて(ただでさえお薬で疲弊しているのに)しまうので、もうライブはPA卓とほぼ同化ポジにいます。(PAポジだと音が丁度良い、だしね)
10年、
10年経っていたんですね…
もっと年配の方はそういう体験をしたことがあるのだろうけれど、好きな方々の年を越す事って普通に考えればある訳じゃなく、
いつか訪れるもの、でしかなくて。
志村さんの時もそうなんですよ。
あのCDJ0910で見るぞー!ってワッショイしていた時にナタリーだったか、ツイッターだったかどっちか忘れたけどそれ見て「えっ?」って言ったんだよ。
何で?しかなくて。
で、今でも思うのは行方知れずどこかで本当は生きていて本当は音楽を作っているんだと思っているのです。
足しげく通う、の中にお金が足りなかったこと、
あとは、頻繁に来てくれる訳でもなくよくサイトを見ている訳でもなかった(でも音楽は好きだったから1回はライブ見たかった)から『いつかフェスで見れれば良いや』って思ってて0910に繋がります。
あの時は機材だけ並べられているステージで、演奏する予定だったセットリストに合わせてライトが動いていたんだっけ。
ボロクソ泣いてました。
非日常の中の非日常
永遠ってないんだなー
とか考えて1周回って今の感性にとどまってます。
『死』というものがあるにせよ、
『納骨』するのも幼い頃見たにせよ、
自分の『見たい!』と思っていた人、モノがあるはずなのに『亡くなりました』という文章で終わっていることになんとなく身体が追い付いていないんだと思います。
家で飼っていた犬もそうなんだろうな。
犬と一緒にすんなよ、って話ですけど丁度上京した年に亡くなって。
それで帰省していないもんで、亡くなったって言ってるけど全然何にも感じれなくて。
だから家で飼っていた犬もどこかで行方知れず生きているのだと思っています。
…変な自論でオチも特にないんですけど、
ロッケンロールは多分これからも生きていくのだろうし、亡くなっても見ていないからどこかで本当は何かしているんだろうと思います。